言の葉の森の水曜日

印象的な言葉の記録

誇り

「絶対に勝てると思ったんだ。だってカバノンは『国家』なのだから、自治があるんだ。それは1830年代のマーシャル判決でも認められている。私は州がなんて言ってこようが気にしないよ。あくまで交渉相手とすべきは連邦政府なんだよ」

 

 自治国家として交渉すべきは州ではない。交渉相手はその上の枠組みである国家。

「部族が交渉すべきは国家である」これは建国以来部族が一貫して持つ政治権利である。しかしカバノン裁判以前多くの部族にとって、それは実生活と直結するような具体的な権利ではなくなっていた。

 

インディアン・カジノ時代の突破口を開いたのは保留地での貧しさを経験し、それでも保留地を去らずに部族主権・部族自治を諦めなかったリーダーたちである。

インディアンカジノ時代とは部族とそのリーダーたちが現在進行形で「国家」とは異なる価値観、異なる社会、異なる自由を求めて挑戦し続ける時代なのである。

自由

「命よりも大切なものは自由だ」当初、この文章を見つけたときは「この言葉は何だ?」と思うだけでした。

ですが、このような軟禁生活を続けていくうちに実感していきました。なぜなら生きていても自由がなければ何もできず、死んでいるも同然だと思ったからです。

 

                            

 

 

決意

「辛くても悲しくても私から〝音楽をやりたい〝という思いは消えなかった。だから仕方なかった。

周りにどう非難されようと一度きりの人生の大きなチャンスを棒に振って諦めて生きていく方が辛かった。
散々悩んで考えた上での決意だったし、音楽の素晴らしさを表現する為ならどんな責任を問われてもやるしかないと思った。」

 

ヴィオラ母さん」  ヤマザキマリ

 

 

人とお金

「金商売は身もフタもないからさ。窓口業務をしてた頃から金でコケる人はいっぱい見てきた。

なんでこんな返せなもしない借金すんだかって 以前はバッカじゃなかろうかって思ってたけど、でもバカ借金する奴ばっかがコケるわけじゃないんだよね。
二ノ宮さんのように急に病気になったり、勤め先をリストラされたり、その両方がいっぺんに来たり、見通しが甘いからだって言い切れないこともあるのよ。


人はいろんな理由で金でコケる。
だからせめて普通の人が金で身もフタもなくなる前に手助けできればって思うんだよね。」

 

 

「恋と巡礼」吉田秋生


 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
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11月17日
 
返信先: @yamatomo413
さん
ナベプロさんがクイーン(Queen)を日本に呼んだのですが、いきなりの武道館ライブにしちゃって。まだそこまで知名度がないのにどうしよう、そうだプロモーションスライドを作ろう。少女マンガ家に描いてもらおう。

徽宗 桃鳩図

 

もし「真」を「観美」よりも上等なことだとする美学からすれば西洋絵画が画面にモノを「実在」させようとしてきたのに対して、日本でははじめから本物とは見えない線の絵を描き、それを通して裏側にある本物とは見えない線の絵を描き、それを通して裏側にある本物を感じさせようとしている、とか

花鳥画でもきわめて装飾的でありながら抽象化を徹底することはなく具体的な「実感」は失うまいとする、など書いてきたことは、ほとんど無意味かもしれない。

 

日本では見る人の「実感」を大いに当て込もうとするのに対し、その本家である中国絵画は客観的な「実在感」を主張するのが当然だったのだから。

日本では、それを本気で学ばなかった。

 

マンガアニメ的なるものを語る際、私は、平安、江戸後期、戦中戦後を「鎖国的」という共通項で括り、「本家」憧れを抱きつつも、留学せず先生を招聘せず、要するに本家に気兼ねせず、本家の実現したものの中から好き勝手に自分の気に入ったものや面白そうなものだけをもらって、あとは自由にやれたから、連続式絵巻・草双紙や浮世絵・マンガやアニメなど、大変面白い独自のサブカルチャーを作り上げることができたのではないか、という仮説を立てた。

しかし、それは何もマンガ・アニメ的なるものだけではなく、地政学的に「本家」と微妙な距離がとれたおかげで、明治以前の日本絵画全般にわたって言えることらしいのである。

 

一枚の絵から 海外編  高畑勲

あいるらんどのような田舎へ行こう

 韓国最高裁ででた徴用工訴訟の判決結果が話題になっていましたね。


国際法をよく理解している韓国人が1965年日韓基本条約をひっくり返すものだと嘆いていましたが隣国同士の関係というのは感情的になりやすいのかしら?

 

あのしたたかなイギリスでさえ、対アイルランドとなるとポカをやっていますものね。

日本と韓国の関係は、イギリスとアイルランドの関係に似ていると言う人もおりますが、だとしたらフランスの位置にあるのが中国かしら?

 

どちらも中華意識の強い、自国の文化に誇りを持つ大陸の大国というところは似てますね。

 

何故、そんなことを思ったかというと、この詩を作った時丸山薫が当時植民地であった朝鮮をイメージしながら「あいるらんど」を詠ったのではないか、という文をどこかで読んだからです。

 

妖精の住まうという愛蘭土。当時の日本人にとっては、そういうイメージを連想するような距離のある場所だったのでしょうか。

 

「汽車に乗って」


汽車に乗って
あいるらんどのような田舎へ行こう
ひとびとが祭りの日傘をくるくるまわし
日が照りながら雨のふる
あいるらんどのような田舎へゆこう
車窓(まど)に映った自分の顔を道ずれにして
湖水をわたり 隧道(とんねる)をくぐり
珍しい少女や牛の歩いている
あいるらんどのような田舎へゆこう

 (丸山薫 詩集『幼年』より)