言の葉の森の水曜日

印象的な言葉の記録

徽宗 桃鳩図

 

もし「真」を「観美」よりも上等なことだとする美学からすれば西洋絵画が画面にモノを「実在」させようとしてきたのに対して、日本でははじめから本物とは見えない線の絵を描き、それを通して裏側にある本物とは見えない線の絵を描き、それを通して裏側にある本物を感じさせようとしている、とか

花鳥画でもきわめて装飾的でありながら抽象化を徹底することはなく具体的な「実感」は失うまいとする、など書いてきたことは、ほとんど無意味かもしれない。

 

日本では見る人の「実感」を大いに当て込もうとするのに対し、その本家である中国絵画は客観的な「実在感」を主張するのが当然だったのだから。

日本では、それを本気で学ばなかった。

 

マンガアニメ的なるものを語る際、私は、平安、江戸後期、戦中戦後を「鎖国的」という共通項で括り、「本家」憧れを抱きつつも、留学せず先生を招聘せず、要するに本家に気兼ねせず、本家の実現したものの中から好き勝手に自分の気に入ったものや面白そうなものだけをもらって、あとは自由にやれたから、連続式絵巻・草双紙や浮世絵・マンガやアニメなど、大変面白い独自のサブカルチャーを作り上げることができたのではないか、という仮説を立てた。

しかし、それは何もマンガ・アニメ的なるものだけではなく、地政学的に「本家」と微妙な距離がとれたおかげで、明治以前の日本絵画全般にわたって言えることらしいのである。

 

一枚の絵から 海外編  高畑勲